室町将軍家衰退と嘉吉の乱の真相
室町幕府の権威が失墜した事件の顛末を追う①
■専制を目指した義教への怒り・不満が膨れあがる
当初、義教は重臣会議の意向を尊重していたが、やがて専制的な性格を強めていく。永享11年(1439)には、鎌倉公方の足利持氏を討伐した(永享の乱)。持氏は幕府に対抗すべく反抗的な態度を取り、改元に従わず、自身の子息の名前には将軍の諱の「義」の字をあえて用いなかった。永享の乱の勝利により、義教はいっそう将軍権力の専制化に成功したのである。
次に、義教は義満以来の守護抑制策を積極的に推し進めた。一色義貫も被害を受けた一人である。永享12年、義貫は大和出陣中に暗殺された。義貫は10年前の義教の右大将拝賀式の際、先陣でなく2番目に配置されたことに不満を持ち、当日は病気と称して参列しなかった。こうしたことが遺恨となったのかもしれない。土岐持頼も将軍に従順でなかったので殺害された。
嘉吉元年(1441)、管領家の畠山持国は義教の勘気に触れて、河内へ出奔した。勘気の具体的内容は不明であるが、結城合戦への出陣を拒否したとか、あるいは事前に義教による畠山家への介入があることを知ったからであるといわれている。最終的に畠山家の家督は、異母弟の持永に継承された。
処罰されたのは武家に限らず、公家も同じであった。義教は側室・日野重子の兄・義資と折り合いが合わず、将軍に就任すると、即座に所領を没収し蟄居を命じた。また、義教に子息の義勝が生まれると、義資の邸宅に客がお祝いに駆け付けた。義教はこれを不愉快であるとし、訪問客すべてを処罰したという。その後、義資が暗殺されると、参議の高倉永藤が「義教の仕業」と噂を流した。これに激怒した義教は、永藤を硫黄島へ流罪としたのである。
こうして義教は気に入らない人物の討伐や追放を次々と行い、恐怖政治を行った。公家・武家を問わず、「次は自分の番かもしれない」と戦々恐々としていたという。
将軍家と赤松氏にも因縁がある。応永34年(1427)、播磨国など3カ国を務めた守護の赤松義則が没した。普通に考えるならば、その嫡男・満祐が後継の守護となるはずである。しかし、義持は播磨国を取り上げ、赤松氏庶流の持貞に与えようとした。怒った満祐は京都の自邸を焼き払い、播磨に下る。ところが、ある僧侶が持貞と義持の侍女との密通を密告したため、持貞は切腹に追い込まれた。こうして満祐は義持に謝罪し、播磨国など3カ国守護職を安堵されたのである。
これだけではない。永享13年には満祐の弟・義雅の所領が没収され、満祐、赤松貞村、細川持賢の3人に分与された。没収された所領のうち、摂津国昆陽荘(兵庫県伊丹市)は義則の時代に明徳の乱の軍功として与えられたので、何とか他家に渡らないよう満祐は懇願した。しかし、この要望は拒否され、満祐は幕府に出仕をしなくなった。 このように義教は専制権力を掌中に収めたが、周囲の反発は大きかったといえる。その不満が噴出したのが、嘉吉の乱なのである。
(つづく)
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